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2009年7月

2009年7月28日 (火)

これからの生き方(お遍路を通じて考えたこと) (2009年7月28日)

家に残っている食材をひたすら料理して食べまくりながら、これからの生き方を考えている。今、テレビを消した。



お遍路の最中に一日割いて松山市内を観光した。坂之上の雲ミュージアムで秋山中将という軍人が「あし(自分)は食うことを考えている」と言って無料で通える陸軍学校への進学を決めたエピソードに触れた。以前から知ってはいたが、歩いていろいろな生の生活と関わりあってからあらためて向き合い、今も反芻している。

亡くなった祖父は、自分の大学退学を残念がっていた。実は、お遍路の道々、祖父の供養をお寺でお祈りしていた。回り続けるうち、いつしか「俺は、俺だ。」という思いが湧いてきた。祖父の供養に一生をささげるのでもない、身勝手な願望を後ろめたさを抱えながら追い続けるのでもない、ただ、自分は自分なんだと思った。先祖供養や学業成就など忘れてさらにしばらく回っていると、お寺で手を合わせるときに「みんなが仲良く暮らせますように」と思うようになった。

最後のお寺、八十八番目に向かう道中でのこと。偶然が重なり、日が暮れてしまうので山道は通れないが車道を迂回してその日中にお寺に着こうと決心した。朝から歩き詰めで、手持ちの食料ではたどり着けないほど疲れて腹が減っていたが途中にお店がない。やっと見つけたタバコ屋さんで話し、そこでカップヌードルを買って食べていくことになった。お湯を入れてもらい、食べ終わってお店を覗くとおばあちゃんとお客のおじさんだけがいて、お母さんが奥でどたばた動いていた。自分は「ごちそうさま」と言って急いでそこを出た。おばあちゃんは笑ってるだけだった。歩き始めてから後悔した。状況からいっても、四国でならお接待と言って応援の意味で食べものなどをいただける可能性が高かった。心の中でそれを期待していた。おばあちゃんからの優しい言葉を待っていた。それがなかったので裏切られたと感じ、また自分から何か言うのは恥ずかしくて、俺はそこから逃げたのだ。自ら恵みを求めるべきだ。「何か食べ物を分けていただけませんでしょうか。」この一言を言えて初めて、自分の人生の幕が開くんだ。結果的にであれ、タバコ屋のおばあちゃんはそのことを俺に教えてくれた。



「みんなが仲良く暮らせますように。」「恵みを。」この二つを胸に、食べていく。供養の意味でも、祖父の家に残った食材で、帰って早々の今日もたくさん食べた。で、考える。これからどうやって、ご飯を食べていこうか。

友達に四国の話を報告しがてら、問わず語りに相談してみたい。

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お遍路に行ってきました (2009年7月28日)

四国お遍路を終え、帰りました。

それまでの自分から大きく踏み出して、全く別人になる。変わっていく自分を受け止めてくれる環境を求めて四国に行きました。

二年前に歩いた徳島県の最後、二十三番からスタート。まずは高知県の真ん中あたり、三十番まで。一旦帰ると、大学準備コースに参加できないことがわかり、TOEFLスコアも必要な点数に達していなかった。全てをぶっちぎって再び四国入り。途中で恩師から連絡をいただく。お会いいただけると先生のほうから強く言ってくださり、迷った末愛媛県入りした四十番のところで東京へ。直後、四国に戻って愛媛、香川を回り徳島の一番にたどり着く。フェリーで海を渡り高野山へお礼参りして、なんば経由で格安深夜バスに乗って今朝帰宅です。

一日四十キロは歩きました。二十七番の有名な急勾配を全力で登りきって色々なことが吹っ切れ、でっかい不動明王が安置された岩穴によじ登ってお参りしたり、愛媛と香川の県境で日が暮れ松山で入手したテントを張って仮眠したり、石鎚山で月明かりのなか次の鎖を探して岩のてっぺんをウロウロしたり。お遍路仲間や地元の方との出会いも本当に色々ありました。

色々ありすぎてすぐには書けないや。

 * * * * *

たまっていた手紙やメールに目を通し、別の大学の準備コースになら今からでも申し込めることがわかりました。あせらず、他の選択肢も十分検討して、身の振り方を考えます。

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